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幸寿司
幸寿司_f0046622_13543919.jpg 山手線に鶯谷(うぐいすだに)という駅がある。
有名人のお墓がたくさんある、大きな谷中(やなか)霊園と古いラブホテル街に挟まれた、風流な名前に似つかわしくない不思議なロケーションの駅だ。
 そこから歩くこと数分。
7月には近くの鬼子母神で朝顔市も開かれる東京の下町、下谷(したや)というところに、ごくごく普通のお寿司屋『幸寿司』はあった。

 板前のおやじさんとおかみさんがふたりだけでやっているそのお店は、結構繁盛していたが、お客さんは近所のひとばかり。
お寿司をつまみながらテレビの野球に一喜一憂する、間違ってもグルメ本なんかには出たりしない、ほんとうにこじんまりとした店だった。

 寿司屋の大将というと、店に入るなり「らっしゃい!」と威勢のいい掛け声をかけたり、常連のお客さんだと家庭事情まで知ってたりするが、ここのおやじさんはそれほどおしゃべりじゃない。
かといって暗いわけでもない。お客の話はちゃんと聞いているが、決してしゃしゃり出たりはしない。
飄々とした雰囲気で、たまに相槌を打ちながら、黙々と職人のように仕事をする。
寿司屋のおやじにしてはちょっと変わった感じのヒトだなぁというのが最初の印象だった。

 うるさくなく、エラそうじゃなく、聞いてもいないウンチクたれたりもせず、気さくで店も適度に清潔。
おまけに安くて美味しい。
ムダに威勢のいいのが嫌いなわたしにはちょうどいい具合の寿司屋だった。

「貝類はあまりお好みではなかったんですよね」
「はい、あんまり・・・」
「イエね、ちょっといいのが入ったもんだから…」
「はぁ、すいませ〜ん」
どんなにいいものが入ったところで食べないのを知っているのに、おやじさんは必ず聞いてくる。

「そろそろ穴子はいかがですか?」
何回か行っていると、食べる順番や個数などもだいたいわかってくるらしい。ちょうど今食べようかと思っていたとこ…そんなことはしょっちゅうだった。

 おやじさんと反対におかみさんはちゃきちゃきとして良く喋る。
でも世間話はしてもヒトの噂話は好まない、さっぱりとしたひとだった。
毎回サービスしてくれるお味噌汁や小鉢がいつも大盛りなので、これじゃお寿司の売上の邪魔なんじゃ…とよく思ったものだ。
そんなケチくさいことを気にしない気前の良さもまた好ましかった。
不思議なものでそういうふうにされると、こっちもあんまりケチくさいことを考えず、気分よくお金が使えるようになる。

 あるとき、たまたまふたりともが奥の調理場に行っていたとき、常連の酔っぱらいおやじがこっそりと耳打ちしてきた。
「あのふたり、夫婦じゃないの知ってる?」
「え〜っ!(少々おおげさに)」
「板前だったご主人が亡くなって、いったんは閉めようとしたんだけど、通いの板前だったあのひとがやることになったんだよ」
「へぇ〜、そうだったんですか」
わたしは清潔なお店で静かに美味しいお寿司が食べられれば、あとは別に気にしない性質だが、
わたしが知らないと言ったからか、おやじは少し得意げで満足そうだった。

 それから数ヶ月後の水曜日。
久々に行った店の前で、定休日の貼り紙に気づき思案に暮れていると、なんとそれは良く見ると定休日ではなく閉店のお知らせだった。

 いったいなにがあったのだろう。
隣の床屋さんに聞いてみようかとも思ったが、聞いたところでお店が再開するわけでもないのでやめた。
こうしてわたしの寿司屋通いは、あっけなく終わった。

 あれからいくつか新しいお寿司屋に行ってはみたものの、どうも今イチなじめず、何回も行く気にはなれなかった。
どうってことのないと思っていた空間は、どこにもないものだった。
 穴子が食べたくなる度に、握る前に少し炙って焦げ目をつけた、あの香ばしい『幸寿司』の穴子を想い出す。
by adukot_u3 | 2006-02-10 02:01 | グルメ
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