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書籍『「空気」と「世間」』鴻上尚史
劇作家の鴻上尚史氏の『「空気」と「世間」』という本の中に、歴史学者の阿部謹也氏の『「世間」とは何か』という本の引用が出てくる。
明治十年頃(1877年)societyの訳語として社会という言葉がつくられた。
そして同17年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。
それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。
ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。
そっか、欧米で言う社会という言葉は、個人を前提としていて、個人が社会をつくるという意味だが、日本ではそうじゃない。
とりあえずの訳語ができただけなので、その内容が欧米のものとは似ても似つかないのは、この時点では仕方のないことだ。

マズいのは、本当の意味での個人が生まれてもいないのに、社会という言葉だけが流通するようになったことだ。
そのせいで、文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれ、それによって、日本の社会の未成熟さや特異なあり方が覆い隠されるというさらにマズい事態になった。
個人を前提としない日本特有の社会ができあがったのは、こういう理由からだ。

しかし学者やマスコミ人と違って、一般の人々はそれほど鈍感ではなかった。
社会という言葉をあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず世間という言葉を使い続けたのである。
なぜなら、一般の日本人がリアルに生きているのは、社会ではなく「世間」だからだ。

西洋から入って来た概念によって日本人は、社会は個人の意志を結集すれば変えられるものだという理屈はわかっている。
わかってはいるが、社会の前に「世間」というものが立ちはだかっている。
日本人にとって「世間」とは、天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうしようもないもので、それを変えるなんて発想は全くない。
だから日本人は、頑張れば変えられるらしいと伝え聞く社会という遠い空の下、「世間」という傘の中からはみ出さないように必死にギューギューやっているのだ。

日本人は電車の網棚にある鞄は盗まないけど、前に老人が立っても席を譲らない。
電車の中で化粧をしても平気だけど、そこに知り合いが乗って来ると恥ずかしがる。
これを鴻上さんは、棚の上の鞄や老人や知らない乗客は「自分に関係のない世界」=「社会」のことだから無関心で、乗って来る知り合いは、「自分に関係のある世界」=「世間」のことだから関心があるのだと分析していて、なるほどな~と思った。

昔は欧米にだって「世間」はあって、日本人と同じような考え方をしていた。
それがキリスト教の普及によって絶対的な神だけを信じるようになり、1000年かかって欧米の「世間」は消滅。
絶対的な神と個人によって構成される社会が出来上がった。
欧米人の神との関係は、日本人の「世間」との関係と同じ。
日本の宗教は「世間」という一神教なのだ。

いつまでも「世間」の中だけで暮らし続けることは、感情に溺れて理性的にモノゴトを判断できないのと同じ。
そこで安穏としている限り、日本は未来永劫変われないだろう。
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かつての「世間」は、自由を制限する代わりに、いざというときはセーフティネットになって守ってもくれた。
しかし、押し寄せるグローバル化によってセーフティネットとしての働きがなくなった今、人々は、自分たちでは変えられない「世間」という極めて安定性と根拠のないものに縛られているだけだ。
よくよく考えたら、日本とはなんと窮屈な国だろう。

ダイヤモンド社のサイト『「お金」と「投資」について知っておきたい大事なこと』というコラムのタイトルが、『お金を儲けるのは「悪」なのに、貯めるのは美徳。へそくり大好きで消費をしない、日本人の価値観』となっていた。

その理由が「日本人は社会に対する信頼が薄いから」とあるが、日本人が「自分に関係のない世界」=「社会」だと思っているとすると、とても納得が行く。
関係ない世界を信頼することなんてできるわけがないからだ。
常々、日本人の社会性の低さを不思議に思っていたが、この本を読んでその理由がクリアになった。
それは、わたしたち日本人がまだまだ人として未成熟だからという一言につきる。

わたし自身、日本の一般社会というものに対する漠然とした居心地の悪さをずっと感じていた。
仕事を終えたあとの帰宅という物理的なものとは別に、意識はどこか別の場所に帰る、そんな感じがしていた。
ずっとわからなかったそのモヤモヤがなんだったのかも、この本によってハッキリした。

わたしは一応は「社会」に住んではいるものの、ずっとそこにいると「世間」から取り残されてしまうから、「社会」から「世間」へ毎日毎日、意識の通勤をしていたのだ。
そんな苦痛から開放されたのは、地デジ化とともにテレビを見ることを止めてからだ。

テレビは間違った世間を作って人々を縛り、そこから外れた人をはじき出す、ぜんぜん人に優しくないシロモノだ。
それをやめたとたん、自分の中で世界が2倍になった。
「世間」しか写らないテレビに、ムリヤリ「社会」を映そうとして苦しい思いをしていたところに、新たに「社会」専用のテレビがやってきた、そんな感じ。
それも、リアルなテレビじゃなく、Googleが開発しているハンズフリーな次世代モバイルデバイス「Google glasses(Googleメガネ)」で見ている感じで、今は非常にニュートラルないい状態にある。

もうひとつハッキリしたことに、政治家との距離がある。
政治家は一般人の代表だから、ほんとは世間のはずなのに、市町村議会議員、県議会議員、国会議員と、範囲が広くなるにつれてその存在が遠くなって行く。

世間←←←←←←→→→→→→→社会
市町村議会議員、県議会議員、国会議員

ということなんだろうな。
by adukot_u3 | 2013-04-01 22:36
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